ある猫の死

作:GLUMip


「ぴろ!ぴろ!」
悲鳴に似た真琴の声がする。
折角の日曜の朝。
貴重な惰眠を妨げられた俺は不機嫌そうに階段を下りていった。
「真琴…日曜の朝ぐらい静かに…」
そう言いかけて、真琴の様子が尋常でないことに気づく。
「わぁっ!ぴろ!ぴろーっ!」


昨日の夜。
ぴろが帰ってこないからと、真琴はいつまでも玄関で待っていた。
名雪が寝て、俺が寝て。
そして、秋子さんが寝ても、真琴は玄関で頑張っていたらしい。
もっとも、玄関で真琴は寝入ってしまっていたようで、秋子さんがかけた毛布に真琴はくるまっていた。
それを見かけたのが夜の2時くらいだったか。
不思議なもので、かつて行われた真琴のいたずらに体がリズムを合わせたらしく、この時間になると決まって目が覚める。
俺はトイレに行くついでに玄関へ立ち寄り、真琴が蹴飛ばした毛布をかけ直したのを覚えている。


「祐一!どうしよう!ぴろがっ!ぴろがっ!」

真琴の服は血で真っ赤だった。
玄関には細くて赤黒い血の帯が這っており、その先は真琴の抱えている猫の腹部につながっていた。
それがぴろであると認識するのに、俺は勇気を伴った。

車にでも跳ねられたのか、ぴろの白かった毛並みは泥と血に汚れ、腹がぺちゃんこにひしゃげていた。
正直言って、そこにはぴろの面影はなかった。
あるのはただ、車に跳ねられた哀れな一匹の猫の姿だった。

「どうしたの、真琴」

騒ぎを聞きつけて秋子さんがやってきた。

「どうしよう!ぴろが死んじゃう!」

真琴は大粒の涙を流して秋子さんの顔を見た。

ぴろは真琴の胸の上で、震えながらかすかに息をするのみだ。

秋子さんは何も言わずにぴろを見た。
そして、真琴の隣に腰を下ろし、右手でぴろを撫でた。

「…事故にあったのね」

ぴろは小さな声で「にゃぁ」と鳴いた。

「…よく、おうちに帰ってきたわね。ぴろは頑張ったのね」
そう言って、秋子さんは立ち上がった。

「秋子さん!この辺に獣医は…」

俺は思わず怒鳴ってしまった。
台所へ戻る秋子さんは、足を止めて振り返った。

「祐一さん、ぴろはもう…」

秋子さんは悲しげに首を振った。


冷蔵庫を開けて牛乳のパックを取り出し、それを皿にあける。

「さあ、おあがりなさい」

真琴の抱えるぴろの口元に皿を近づけ、秋子さんはぴろに匂いをかがせた。

「うなぁ」

小さな声でぴろは応じ、真琴の手から抜け出て床におかれた皿へ顔を寄せる。
ぴちゃぴちゃと水音をたててぴろがミルクを飲む。
秋子さんはその姿をうれしそうに眺めていた。

ぴろは満足したのか、後ろ足を引きずりながら歩き出した。

「あっ!ぴろ!」

ぴろを拾い上げようとした真琴を、秋子さんが制する。

「だめよ」

秋子さんは一言たしなめると、ぴろのためにドアを開けてやった。
そしてぴろが行ってしまうと、黙ってドアを閉めた。

誰も何も言わなかった。
ただ、真琴はぽろぽろと涙を流して秋子さんの胸にすがって泣いていた。

それから、一時間が過ぎた。
誰も玄関から動こうとしなかった。
秋子さんは真琴の頭をポンポンと叩いて、立ち上がった。

ドアを開けると、雪の上に血の跡があった。
ひとつは、瀕死のぴろが家にやってきたときの跡。
そして、もうひとつは家を出ていったぴろのものだった。

玄関を出た跡は、そのまま大きくカーブを描いて庭につながっていた。
庭の小さな木の前で、ぴろは冷たくなっていた。

真琴は秋子さんと手をつないで立ちつくしていた。
そして、もう片方の手はぶるぶると震えていた。

「ぴろは、最期に真琴と会いたかったのね」

秋子さんは真琴の頭を撫でた。
真琴は声を上げて秋子さんの胸で泣いた。

俺達はぴろの横たわっていた部分を掘り、すっかり変わってしまった姿のぴろを埋めた。

真琴はすっかり泣きはらして赤くなった目をこすりながら土をかけた。
「もう猫は飼わない」
そう言って真琴は鼻をすすった。
秋子さんは目印にぴろが使っていた小さな皿を立てかけた。

雪が降ってきた。
掘り返した地面もわからなくなるほど、その日の雪は多かった。



あれほどこの街を深く覆っていた雪も少しずつ無くなっていた。
この街にも遅い春の兆しが訪れていた。
家の庭も、雪が溶けて地面がちらほらと見え隠れしている。
小さな皿の前には2本のツクシが顔を出していた。

小さな小さなツクシを真琴は飽きることなく眺めていた。

「ねぇ、秋子さん…また猫飼ってもいいかなぁ…」

春はまだ、始まったばかりだ。

おわり