喪失 第2話    「母、秋子の苦悩」 作:GLUMip 「奇跡を信じるのは人類の特権です」 祐一は秋子に告げると二階に上がっていった。 秋子の目にも祐一の動揺は明白だった。 足を引きずるようにして階段を登ってゆく祐一の姿を、秋子は黙って見送るしかなかった。 足音が聞こえなくなってから、秋子はゆっくりと窓に向き直った。 「祐一さん、辛いでしょうけど…」 その後は言葉にならない。 泰然自若とした水瀬家の母として評判の秋子も、苦悩する者の一人であった。 彼女が優しいがために、そして、母であるが故に。 秋子は瞼をうっすらと閉じた。 あの日の記憶が蘇る。 大事なあの人のことを、私と名雪を残して一人旅立ってしまったあの人のことを。 その、最後の瞬間のことを。 あらゆる局面において動じなかった秋子が、初めて取り乱した時があの時だった。 病院で「嘘でしょう!」と叫んで泣き崩れたのを今も鮮明に覚えている。 …信じない、信じたくない。 小さな箱に入ってしまったあの人に線香をあげて、なおも首を振りつづける自分がいた。 夕方になれば足が自然と玄関に向かい、夜のとばりが下りてもなお、玄関に 呆然とたたずんでいる。あの頃はそんな日々の繰り返しだった。 あの祐一の足取りは、あの頃の自分を思わせた。 ただ、自分が絶望の淵に追い込まれなかったのはお腹に名雪がいたからだった。 夫の死を受容できるようになるまで、相当の年月がかかったが、 あの人の子供である名雪の存在があればこそだった。 しかし、あの頃の自分と違って、祐一に支えはない。 ただ一つ、奇跡と言う名の希望のよすがに頼るしか、術はない。 あの頃の自分と違って、祐一はまだ若い。秋子は不安であった。 「祐一さん…辛いでしょうけど…」 薄く瞼を開けた秋子の、その唇から再び言葉が漏れる。 しかし、その続きが出てこない。 苦しみに耐えろとも言えなかった。 希望を捨てるなとも言えなかった。 苦しみに耐えるにはあまりに過酷であり、 希望を抱かせるのはあまりに残酷であった。 何を口にしても、秋子は傍観者としての言葉しか口にできない。 それを口にすれば、秋子は母として失格の烙印を押されるのだ。 同じ苦しみを味わった母としての。 秋子は目を伏せ、頭を垂れた。 母、秋子に許された唯一の選択肢、 それは祈る事だった。 つづく