秋子さんの危機管理
作:GLUMip
「ふぁいと、だよ」 そんな台詞は、確か彼女のものだったろうか。 不必要なファイトが、今朝もここ水瀬家の玄関で繰り返されていた。 秋子さんの入院以降、名雪は朝早く起きるようになったものの、なんだかんだで結局はあまり時間に 余裕がない生活をしている。 この冬には東京の大学を受験する…と言っているのに、この体たらく。 俺は少々不安だった。 今日も遅刻ギリギリで、焦る名雪はなかなか靴が履けないらしく片足で立ちながら片手を壁に手を ついて悪戦苦闘している。 壁は、木目が綺麗にニス塗りで仕上げられり、ぴかぴかだった。 これは先日秋子さんが日曜大工で綺麗にしてくれた物だった。 名雪はそんな壁を宙で掻いて台無しにしている。 「わっ…わわっ」 壁に掴まろうにもつるつると滑ってしまいおぼつかないらしい。 危ないな、と思った次の刹那、名雪は派手に転倒した。 「うわっ…」 必死に体勢を立て直そうとする名雪の手は、先日秋子さんが買ってきたばかりのプラスチックの 靴入れに引っかかった。 骨組みだけのそれは背の高い花瓶を上に置いてあったが、はかなくも花瓶と共に転倒した。 パリーン! ガラスの鈍器が砕ける音。飛び散る水。散らされる花。 「あらあら…」 喧噪際立つ光景に、秋子さんが困ったような微笑を携えながらやってきた。 「またやっちゃった…」 泣きそうになる名雪に、秋子さんは向き直って微笑んだ。 「ここはお母さんがやっておくから、名雪は学校に行きなさい」 「うん…いってきます」 そう言って、秋子さんは新しい花瓶を取り出した。 手際よく散らばった花を集め、差し直す。 靴入れを買ってきて以来、連日のように花瓶は割られ、その度に秋子さんは名雪をたしなめながら 学校に送り出すようになっていた。 そんな光景に、俺はある種の疑念を抱くようになっていた。 「秋子さん、靴入れの場所を変えて、上に花瓶を置くのをやめたらいいんじゃないですか?」 名雪が部活に精を出している頃、俺は秋子さんの入れてくれた紅茶を飲みながら聞いたものだ。 「祐一さん、危機管理という言葉を知っていますか?」 「ええ、だから靴入れの場所を…」 「それは危険管理です」 秋子さんはティーカップを静かに皿の上に置いた。 「いいですか、確かに靴入れをあそこに置き、しかも不安定な背の高い花瓶を置くのは危険です」 「花瓶には水がなみなみと入れてあり、しかも落とすと割れるガラス製ですからね」 俺は憮然として紅茶を飲み下した。 「危ないじゃないですか」 「祐一さん、だから、あなたの言っていることは危険管理なのですよ」 どうにも納得がいかない。危険と分かって放置する、秋子さんらしくない発言に俺は戸惑いを覚えた。 「わたしがしているのは、危機管理です」 はぁ…と頷いて秋子さんの目を見る。 「いいですか、わたしが事故にあって以来、名雪は確かにひとまわりもふたまわりも大きくなりました」 「それは俺も分かります」 「それで自信を付けた名雪は東京の大学に通いたいと言っていますね。しかも、アルバイトをして 下宿代を稼ぐから行かせて欲しいと」 「でも、今日も遅刻ギリギリなのに、一人暮らしをして上手くやっていけると思いますか」 「それは…一人暮らしを始めれば少しは…良くなると思いますが」 「夜はすぐに寝てしまうあの子に、アルバイトが勤まると思いますか?」 俺は首を横に振った。 「わたしは、名雪には隣町の大学が合うと思っています。」 「…秋子さん…つまり、あの靴入れは名雪に親離れさせないように仕向た罠って事ですか…」 秋子さんは珍しく語気を強めて俺に言った。 「祐一さん、わたしを見損なわないでください。名雪が毎日花瓶を割って、これでは一人暮らしも おぼつかないと自分で考えるようなら東京には行かせません。でも、それでも東京に出たいと考えるなら 十分に親離れできているわけですから、その時は黙って送り出します。今の生活を改めたり、 靴入れの位置を自分で直すようになったら、その時も東京に送り出します」 俺は口をぽかんと開けたまま、何も言えなかった。 「よろしいですか、祐一さん。危機管理とはこういうことなのですよ。紅茶、もう一杯いかがですか?」 おわり
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